創業者について

創業者 園木 謙彦について

軌道が敷かれていた訳ではない
全力投球を繰り返す日々であった-園木謙彦

ぬけるような青空が広がっていた。はるかにかすむ筑紫平野、流れる筑後川が、時折、五月の陽光に輝いていた。静けさの中赤司さんの詩の朗読が続いている。語感からミュラーの叙情詩「春の夢」に違いなかった。丘の草に座し、あるいは横たわり、つかの間の自由を思い思いの姿で満喫していた。昭和十八年、大平洋戦争のさなか、私たちは幹部候補生として、陸軍経理学校入校前の短い教育期間を、久留米の地で過ごしていた。大げさでなく、毎日二十四時間がきびしい訓練の連続であった。皆が、国に殉ずるの覚悟はしていたが、人生を考えれば、当然のことながら矛盾もあったに違いない青春の日々であった。日曜日の朝、兵科の教官赤司見習士官に率いられたわれわれは、演習場の丘で、詩の朗読という思いがけない機会を与えられ、驚喜した。

園木謙彦

赤司さんとの巡り合いは、六十五名の幹候生の心に鮮烈な印象を残した。戦時下で軍の教官が大胆にも、一片の西欧の詩に託し、人間に真に価値のあるもの、時空を超えた永遠の生きざま、それはただ「夢とロマン」の追求にあるのみ、との信念を吐露された。そして私の生涯に強烈な感銘と影響を与えられた。

終戦後、ようやく職を得た商社は、新三品の暴露で倒産した。それを機に納得のゆく生きがいを求めて独立し会社を興したが、当然のことながら、慣れぬ企業経営でもあり、苦闘の日々を迎えていた。会社設立十年を記念して、せっかく都心に念願の土地を取得したものの、主力銀行との経緯もあり、資金事情は悪化、苦闘の日々が続いた。夢であった給油所組み込みのこの自社ビル建設は、きわめて合法的なものであったにもかかわらず、当初から地元住民の反対や、業界他社の反響などで、建設が遅れ信用問題での誤解を招いた。

忘れもしない昭和四十四年の一月御用始め、突然赤司常務が私どもの事務所を訪問された。当時、三和銀行とは、若干ながら取引関係にあったことから、窮状察知されてのご訪問であるとは推測できたものの、先輩に率直に実情を訴え得ない当方の心情をご理解され、以降ご支援を受けることになった。「仕事はうまくいっているか」「頑張るんだぞ」との陣中見舞い、激励のお言葉が、耳にいつまでも残った。二十数年前の一生徒の仕事の現状を案じて下さるお心がうれしかった。

時が経過し、本社ビル完成のお礼を申し上げに参上した際に、次のお言葉を頂だいした。

(1)
無理はせずに、着実慎重に
(2)
持株の配分は注意して
(3)
後継者の育成、選択に留意せよ、人生は王道でなければならない、信念が人生を拓く、
頑張りなさい。

金融業界という厳しい社会にお住みになりながらも、人に対する血の通った、優しさ、温かさが常に相手に伝わるお人柄であった。昭和から平成に至る間、社会環境は大きく移り変わり、変化の時代が過ぎていった。他の業界が大きく発展したように、エネルギー業界の成長も目ざましいものであった。三十余年の企業経営を振り返ってみると、常に発展を心掛けてきただけに、危機との遭遇も数知れなかった。軌道が敷かれていた訳ではない。全力投球を繰り返す日々であったが、企業としての正道は見失うことなく過ごすことができた。五十年にわたる指導が、これからの日々にいかに大きかったことだろうか?
相談役に退かれたある日、訪問先のスペインからシェリー酒をお送り申し上げた。折り返しに、丁重なお礼状をいただいた。「……私も来年は、はや喜寿を迎えます」というお言葉がそえられていた。しかし、目を閉じると、今、私の心に浮かぶのは、やはりあの碧空の筑紫平野をバックにした、若き日の先輩、教官のお姿であった。

解説

上記の文章は平成五年に出版された「赤司俊雄追想集」に収録された故人・園木謙彦の原稿です。(原題は「人生の師 赤司教官を偲んで」)
赤司氏は、故人の陸軍入隊時の教官であり、後に三和銀行頭取を勤められました。
原稿は、故人が『人生の師』として仰いだ赤司氏との関わりと、その教えを綴ったものです。故人の経営や人生に対する考え方を良く表したものということで、ご紹介いたしました。
故人の生涯は、決して平たんなものではなく、幾多の危機を乗り越えてのものでした。本文にもある自社ビル建設も、そのひとつのエピソードです。当時、このビル建設を米国本社に報告したモービル石油の担当者は、レポートに「サムライズ・キャッスル(侍の城)」と表現したとのことです。

園木謙彦 年譜

大正8年10月14日福岡県久留米市に生まれる
昭和17年早稲田大学法学部卒業、直ちに応召
陸軍経理学校(満州・新京)入校
昭和20年陸軍燃料本部東京燃料部の経理将校として終戦を迎える
昭和22年東亜交易株式会社入社
昭和27年同社解散により退社
昭和29年日新商事株式会社入社
昭和37年冨士鉱油株式会社を設立、代表取締役に就任
昭和47年自社ビル(現・本社ビル)完成
平成5年冨士鉱油株式会社代表取締役会長に就任
平成13年7月12日永眠。享年82歳
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